先日、友人との会話の中で、写真というキーワードで括ることによって生じる息苦しさのようなものについての話題があった。
周知のごとく、すでに至る所で議論されている話題ではあるけれど、それは自分と遠いところにある話題ではない。
写真は現実にあるものを、撮影者の主観によって決められた画面の中に収め、主に複数組み合わせることによってそれを作品とする。
この過程は多くの場合変わらない。
しかし問題となるのは制作に先立つ作者の立ち位置だ。
この立ち位置を確かめようとする時に、件の息苦しさはある。
写真というメディアを使って作品をつくる。
写真はメディウムだ。
なにを媒介させるのか。
それにはどういった装飾が必要なのか。
気になる作家の立ち位置は、想像だけでなく出来れば本人を前に確認して、そのうえで作品を見たい。
同様に自分の立ち位置を自分で把握する必要がある。
以前ワークショップに参加した時に聞いた何気ない一言は、実感を伴って今響いて来る。



今日見た展示

  • 岡正也「天然記念物」Totem Pole Photo Gallery

作家本人とかなり長い時間話をすることが出来てとてもよかった。
自分には作れない種類の作品だと思う。
画面そのものと内容のバランス感覚が心地良いのだと思う。